信念を持ち続けた男、ネルソン・マンデラ その生涯にわたって訴え続けたもの、終身刑を受けながらも訴え続けたこと

 昨年の2013年、偉大な方がまたお亡くなりになりました。彼の名前はネルソン・マンデラ。生涯にわたり差別と闘い続けた彼ですが、その生涯は苦節や忍耐の連続でした。終身刑を受けながらも27年間訴え続けたこととは何だったのか、何が彼をそうさせたのか。今回はネルソン・マンデラ氏に迫ります。

 1918年に南アフリカ連邦で首長の子として産まれたネルソン・マンデラ氏。彼はその恵まれた環境ゆえに、名門フォートヘア大学で法律を学びます。しかし当時、学生ストライキを主導したとして退学処分をうけます。その後別の大学で法律を学ぶと、1944年アフリカ民族会議(ANC)に入党しました。彼はこの時から、「非白人」解放運動に積極的に取り組むようになります。通称「アパルトヘイト」、非白人差別と、彼はこの先生涯をかけて戦うこととなります。
しかしANC副議長になると、軍事組織の最初の司令官としての活動などで1962年に「国家反逆罪」などで逮捕されました。この収監は27年間続きました。この時マンデラ氏は結核をはじめとする呼吸器疾患、加えて重労働により目を傷めるなど、体調を崩しました。しかしそんな獄中でも勉学を続けて、法学士号を取得しました。その収監されていた島の名前から、「ロベン島大学」と呼ばれるほど、仲間たちと勉学を続けました。
この時、マンデラ氏の家族も様々な弾圧や嫌がらせを受けました。これはマンデラ氏も苦しめましが、彼は活動をやめませんでした。その背景には、やはりアパルトヘイト撤廃にむけての強い意志があったのでしょう。彼はあきらめませんでした。

 そうして1989年、当時の大統領であるデクラーク氏との対談が実現されると、無事釈放されます。当時マンデラ氏は71歳ですが、その後ANCの議長に就任し、全人種代表が参加した民主アフリカ会議を2度開きます。そこで暫定政府、暫定憲法を作成し、1991年、ついにアパルトヘイトは撤廃されることになります。この甲斐あって、1993年にはノーベル平和賞を受賞しました。
その後もマンデラ氏は南アフリカ共和国の大統領として、民族和解、協調を呼びかけて、新憲法を制定する際にアパルトヘイト体制下の白人、黒人の格差、黒人同士の対立の解消を目指しました。
その後、1999年マンデラ氏は政界から引退しました。

 南アフリカには、マンデラ氏のことを「神」と崇める方もいるといいます。実際アメリカの大統領オバマ氏も、彼を「20世紀最後の偉大な解放者で、歴史の偉人」とまで言っています。なにが彼をそうとまで言わせるのか。それはマンデラ氏の信念につながります。
アパルトヘイトで差別されていた非白人と、差別していた白人。言わずもがなマンデラ氏は差別されていた非白人のほうです。そこには怒りも悲しみもあったでしょう。しかし彼はアパルトヘイト撤廃に努める中、決して復讐しようとはしませんでした。あくまで白人と非白人の和解や協調に尽力を尽くしたのです。身体を壊しながらも耐えた27年間の獄中生活はつらいものでした。しかしどんな仕打ちをうけても、彼は活動をやめませんでした。
2013年、彼はこの世を去りました。御年91歳。世界中が彼の死を惜しみました。そのマンデラ氏の追悼式典では、長いこと確執があったアメリカのオバマ大統領と、キューバのカストロ首相が握手するという歴史的なことが起きました。マンデラ氏は死後も平和のための架け橋を作っていたのです。

 そんなマンデラ氏を非難する声も挙がりました。南アフリカは政治面ではアパルトヘイト撤廃などで変わりましたが、経済面では、白人系の資本による支配が以前のまま残されていることから、ほとんど変わっていないではないか、という指摘があります。
確かにそうかもしれません。しかしマンデラ氏が残した遺産としてのアパルトヘイト撤廃は、他の何にも代えられないものです。だからこそ世界中が彼の死を悼み、彼を英雄だというのです。けっして簡単な道のりではありませんでした。彼のゆるぎない信念のもと、こうして一つ歴史が変わったのです。

最後にネルソン・マンデラ氏の言葉を一つご紹介します。これはマンデラ氏の苦節の日々を表しています。誰しも壁を乗り越える時は苦節が待っています。それを乗り越えられるかどうかで人生は変わってくるものです。生涯信念を持ち続けた、マンデラ氏。彼に教わることはたくさんありますね。

Do not judge me by my successes,judge me by how many times I fell down and got back up again.

~成し遂げたことで私を判断するのではなく、失敗して再び立ち上がった回数で判断してほしい~