国民的アニメ「アンパンマン」の生みの親 やなせたかし氏 ~漫画に尽力したその人生とは?~

 言わずと知れた国民的大ヒットアニメ「アンパンマン」。その作者であるやなせたかし氏が昨年2013年に亡くなりました。彼は漫画の復興のために尽力したことをご存知でしょうか?生活が苦しい時にも漫画を描き続けたやなせ氏は、最初から売れっ子だったわけではありません。病魔に侵されつつも、漫画の第一人者として活躍し続けたやなせ氏に迫ります。

漫画家になるまで


 やなせ氏は最初から漫画家一本だったわけではありません。1941年には徴兵され戦争も体験しています。絵に対し再び興味を持ったのは、終戦後でした。新聞会社で編集の仕事をしながら、表紙絵なども手掛けていました。そうして退職ののち漫画家を目指すことになりますが、生活がままならなかったため、兼業漫画家の道を歩き始めます。とにかく生活に困ることが嫌だったそうです。その後三越に入社しますが、漫画家としての収入が安定したため、独立することになりました。

手塚治虫の登場


 漫画家として精力的に活躍していたやなせ氏ですが、ここで大きな壁にぶち当たります。それは手塚治虫の登場と漫画の流行の変化によるものでした。やなせ氏が活躍していた漫画のジャンルが過去のものとして廃れていき、彼の漫画が人々になじまなくなってしまったのです。その代わりに活躍し始めたのが手塚治虫でした。しかしそこで「はい、そうですか。」とあきらめるやなせ氏ではありません。

困ったときのやなせさん


 漫画家としての仕事はへりましたが、その代わりにやなせ氏はマルチな才能を開花し始めます。舞台美術を制作したり、放送作家として活動し始めたのが、ここからでした。ここで、名曲「手のひらを太陽に」の作詞も手掛けています。この時のやなせ氏は、その逆境にも立ち向かったことから「困ったときのやなせさん」と呼ばれました。

アンパンマンの誕生


 そこからは、サンリオと懇意にしたことから、絵本作家としても活躍することになります。ここで生まれたのがアンパンマンでした。これが1988年にアニメ化して、大ヒットしたことでやなせ氏の地位が確立したともいえます。

漫画の復興に尽力した人生


 その後もやなせ氏は天狗になることも無く、漫画の復興にも精を出すようになります。2000年には日本漫画家協会理事長に就任し、自らも「漫画的におもしろい」漫画家を目指すようになりました。しかし、実はアンパンマンがヒットしたころから、体調を崩し始めていたやなせ氏。一時は引退も考えましたが、東日本大震災で、「アンパンマンのマーチ」が復興のテーマソングになったことから、引退を考え直します。そうして復興のためにも尽力しました。

 高齢と体調不良を理由に、2012年、日本漫画家協会の理事を辞任しますが、その後もテレビに出演などはしました。その時のやなせ氏は、自分の死をほのめかす発言が多かったようです。そして2013年10月、惜しまれながらこの世を去りました。

 常に漫画と共に生きたきたやなせ氏。その功績は、1967年に受賞した「週刊朝日漫画賞」から、2008年の「東京国際アニメフェア2008 第4回功労賞」まで、輝かしいものばかりです。しかし、最初からうまくいっていたわけではありません。「困ったときのやなせさん」という言葉があるように、その逆境の時こそあきらめずに走り続けたやなせ氏。結果「アンパンマン」、「手のひらを太陽に」などという、後世にまで受け継がれる名作を生み出したことは、この上ない快挙だと思われます。

 最後に、やなせ氏の名言を2つと、「アンパンマンマーチの歌詞の一部をご紹介します。今再び見直すと、深い意味を持った歌詞だと思ってもらえると思います。やなせ氏ぼ独特の倫理観を、ぜひ味わってみてください。

「何のために生まれ 何をして生きる。
わからないまま終わる、 そんなのは嫌だ。
何が君の幸せ? 何をして喜ぶ?
わからないまま終わる、 そんなのは嫌だ。」
~「アンパンマンマーチ」より抜粋~

「怪獣を倒すスーパーヒーローではなく、怪獣との戦いで壊された街を復元しようと立ち上がる普通の人々がヒーローであり、正義なのです。」

「成功の秘訣というのは、ぼくに言わせれば、七十パーセントが運。二十パーセントが努力で、十パーセントが天分。
ぼくがどれだけ漫画を描いていたとしても、その良さを発見する人、本にしたいと思う人が出てこなければ駄目なんです。」