瀬戸内寂聴 不倫の末の作家人生 圧倒的な支持を受けるその活動の根底にあることとは?

 瀬戸内寂聴さんといえば、何を思い浮かべますか?以前に「金曜日のスマたちへ」で特集したものを見ていた方も多いと思います。瀬戸内さんは現在天台宗の尼僧で、作家でもあります。そんな瀬戸内さんの人生は、波乱の連続でした。今回は、瀬戸内寂聴さんにスポットを当てて、お話ししていきたいと思います。

最初の不倫


 瀬戸内さんは、東京女子大学在学中の、21歳の時、お見合いを経て結婚しました。翌年の1945年には長女を出産、その後旦那様に同行し、北京にわたります。しかし帰国した1946年、彼女は旦那様の教え子と恋に落ちて、長女を残し家を出てしまいます。その旦那様がDVがひどかった、という話もあります。

作家としての始まり


 しかしその教え子ともうまくいかず、正式な離婚後、瀬戸内さんは東京で本格的に小説家を目指し始めました。まずは「少女世界」に少女小説が掲載されると、「少女世界社」、「ひまわり社」、「講談社」、「小学館」で小説や童話を書くようになりました。

小説家としての壁


 処女作「痛い靴」を発表し、同じ年に「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞を受賞するなど、同人作家としてもスキルを積んでいた瀬戸内さんでしたが、ここで思わぬ風評にさらされることになります。受賞後一作目の「花芯」で、批評家から「子宮作家」というレッテルを貼られてしまってのです。「花芯」がポルノ小説だという批判だけでなく、「花芯」の中に、たびたび子宮という言葉が出てきたことが理由でした。その後は数年間文芸雑誌から声がかからなかったといいます。しかしここで立ち止まることなく、瀬戸内さんは大衆雑誌や週刊誌で作品を発表するようになりました。そこからまたな波に乗り、数々の作品を手掛けていきました。

二度目の不倫を経て


 その時期、瀬戸内さんはまた恋に落ちて、不倫関係を持っていました。その、自分の恋愛体験を書いたものが、「夏の終わり」という作品です。これは2013年に映画化もしたので、記憶に新しい方もいらっしゃると思います。そうして人気作家となり、1992年には、「花に問え」という一遍上人を書いた作品で、谷崎潤一郎賞を受賞しました。

出家


 1973年、瀬戸内さんは天台宗にて出家をしています。最初は修道女になりたかったようですが、自分の過去を顧みて、断念したといいます。1987年には、天台寺住職となり、尼僧としてその名を世に知らしめました。尼僧としての活動は、非常に高く評価されています。麻薬で逮捕された荻原健一さんと積極的に交流を図り、更生に尽くしたことは有名です。ほかにも、死刑判決を受けた方々と文通をするなど、悩んでいる多くの方々に手を差し伸べています。特に死刑囚にも人権があることを、強く示しました。
又、多くの活動もしています。救援物資をもって、湾岸戦争のちのイラクへ訪問したり、同時多発テロの報復攻撃に反対しストライキを起こしたりもしました。そういう面でも、多くの人々の先頭に立っているのですね。

「本当の恋愛の醍醐味は不倫だ」という瀬戸内寂聴さん。その発言を一概には良し、という方ばかりではないと思いますが、彼女の波乱に満ちた人生から、不倫は大きな人生の岐路であったと読み取れます。人それぞれ、でいいのかな、と思わせてくれますね。

最後に、瀬戸内さんの名言を2つご紹介いたします。ぜひ悩んでいる方に読んでほしい言葉です。瀬戸内寂聴さんらしい、暖かな言葉ですよ。

「あなたは苦しんだ分だけ、愛の深い人に育っているのですよ。」

「もし、人より素晴らしい世界をみよう、そこにある宝に巡り会おうとするなら、どうしたって危険な道、恐い道を歩かねばなりません。そういう道を求めて歩くのが、才能に賭ける人の心構えなのです。」