草間彌生、その波乱多き人生での「水玉」模様に込めた思い、少女期の病魔との戦いと、芸術への挑戦

 今や日本を代表する画家となった草間彌生は、その独特の「水玉」模様で一躍有名になりました。また、彼女は画家であると同時に、彫刻家、小説家、ファッションデザイナーとしても活躍を見せています。そんな彼女を芸術の世界へ誘ったものは何だったのか、彼女の「水玉」模様へのこだわりとは何故なのか。今回は草間彌生に迫っていきます。

 草間彌生は1929年に、長野県松本市で種苗業を営む裕福な家に生まれ、幼い時からスケッチに興味を持っていました。しかしその一方で、10歳のころから統合失調症を止んでしまい、幻覚や幻聴などの症状が幼い彼女を襲います。そんな症状から逃れるために、それら幻覚や幻聴を絵に書き留め始めました。これが、草間彌生を代表するといっても過言ではない、「水玉」のモチーフの原点です。彼女が描く「水玉」模様をモチーフにした作品の数々は、「ドット・ペインティング」とも呼ばれますが、それらは彼女が、自らに襲い掛かってくる幻覚や幻聴から自分を守るための、作品を水玉模様で埋め尽くす儀式であるとされています。

 いまや統合失調症は精神病の一つとして、人々の認知度も高くなっていますが、当時はそんな認識が今ほどあったとは思えません。彼女にとって、幻覚や幻聴などの副作用に悩まされた幼少期は、決して生きやすい世界ではなかったことは明らかです。そんな苦悩の日々から生まれた「水玉」模様が、のちに彼女を代表する作品に変わるとは、彼女自身が一番おもってもいなかったことでしょう。ちなみに過去、統合失調症に悩まされた芸術家として、芥川龍之介がいます。彼は作家ですが、作品の一つである「影」には、その症状が描かれてあり、その苦悩の日々がうかがえます。

 彼女が芸術家としての頭角を現してきたのは、16歳の時でした。大戦によって疎開してきた画家たちが「第一回全信州美術展覧会」を立ち上げる中、草間彌生はわずか16歳で入選を果たしたのです。その後は松本高等女学校を卒業した後、京都市立美術工芸学校で日本画を学び、数々ののちに役立ってくる技法を身につけますが、当時古い考えに囚われていた日本画壇に失望し、松本へ帰ることになりました。その時は寝食も忘れ、毎日数十枚を描いていて、のち1952年に松本市公民館で個展を2度にわたって開きます。その一度目の個展で、医学博士といわれる精神科医の西丸四方が彼女の作品に感銘を受け、絵を購入しただけでなく、医学学会で紹介したり、ゴッホ研究で有名な精神科医の式場隆三郎ともつながりを持つことで、白木屋百貨店とのつても得るようになります。そんな彼は、その後の生涯における、彼女の良き理解者となりました。ちなみに彼女の幼少期の病魔を、統合失調症だと診断したのも彼です。

 1957年に渡米するまで、1954~1955年にかけて東京で4度個展を開いています。このころから草間彌生の知名度がぐんと上がりました。
その後ニューヨークに拠点を移した彼女は、親友でありパートナーとなったジョゼフ・コーネルと出会います。そうして1960年代後半になると、彼女のボディ・ペインティングやファッションショー、反戦運動などは、その過激さから「ハプニング」と称されました。また、自作自演の映画、「草間の自己消滅」は、第四回ベルギー国際短編映画祭に入賞するなど、ヨーロッパ各地でも「ハプニング」を行いました。ひょっとしたら、このころ何かが彼女の中で爆発していたのかもしれません。

 しかし、1973年に彼女をまたどん底へ突き放すことが起きます。パートナーであったジョゼフ・コーネルが死去してしまったのです。このことが原因となって草間彌生は体調を崩して日本へ帰国し、入院しました。彼女の悲しみは計り知れるものではありません。しかし彼女はここから、小説や詩集を多数発表し始めます。1978年には処女作品「マンハッタン自殺未遂常習犯」を発表した後、1983年には「クリストファー男娼窟」で、第十回野生時代新人賞を受賞しました。これらの小説には、彼女の幼年期の幻視体験をモチーフにしたものもあります。

そうして草間彌生が悲しみを乗り越え、活動を活発にしだしたのは、1990年代初頭のころでした。世界的に再評価が高まって、2012年には世界的有名ブランドのルイ・ヴィトンとのコラボレーションを発表するなど、商業分野でも活動し始めました。

 きたる今年、2014年には個人美術館も開館予定な草間彌生ですが、ここまでの道は決して容易いものではありませんでした。幼年期からの病魔との闘い、パートナーの死去など、様々なことを乗り越えて、今の彼女があります。「水玉」模様にこだわる訳も、彼女の苦しみの果てだと思うと、見方が変わってきます。今年85歳を迎える草間彌生ですが、まだまだ彼女の活躍が期待されます。同じ日本人としても、彼女を応援し続けたいですね。