松下幸之助、一代で築き上げた城、幼いころから頭角を現していたその商才、社に尽くしたその一生とは

 日本を代表する大手電機会社であるパナソニック。その今を作り上げたのが松下幸之助です。一代で築き上げたその功績は、輝かしいものですが、そこには並々ならぬ苦労がありました。長者番付で10回全国1位になり、「億万長者」とも言われた松下氏は、実は貧しい生まれで、丁稚奉公で苦い思いもしています。常に逆境から始まり、それを覆してきた松下氏。今回はそんな彼に迫ります。

幼いころから頭角を現す。


 父親が商売に失敗したため、松下氏は尋常小学校を中退し、丁稚奉公に出されました。そこで客にタバコを買いに行かされることが多かった松下氏は、ある日ひらめきます。「何度も買いに行くよりも、まとめて買って買い置きしておけば、すぐタバコも渡せるし単価も安くなる」と考えた松下氏は、それで小遣い稼ぎを始めます。しかし丁稚仲間から反感を買い、店主にもやめるように言われた松下氏は、ひとり勝ちは良くないものだと学びました。わずか9歳でそこまで考え、失敗までも自分の糧にしようとするその商才は、成人してからの松下氏を大きく支えることになります。


電球ソケットで会社創設


 松下氏を電気製品へのめりこましたのは、電球ソケットでした。当時電球の取り外しは専門職だったため、簡単に電球を外せないだろうかと考えたのがきっかけでした。そこから松下氏は妻むめのとその弟、友人二人と会社を創設し、電球ソケットの開発に勤しみますが、売れ行きは芳しくなく、友人たちは会社を去ります。しかしその後、アタッチメントプラグなどがヒットしたため経営が軌道に乗り始めます。そこで生まれたのが「松下電気器具製作所」です。これが後々大きくなり、パナソニックに代わっていくことになります。

公職追放処分、不況、苦難の日々


 しかし順調なままではありませんでした。戦後GHQの支配下で、制限会社に指定され、さらに松下氏は戦争協力者として公職追放処分を受けてしまいます。これには松下氏も反論する一方、倫理教育に乗り出し世評を高めることで制限会社指定を解除され、再び社長に復帰しました。しかしそこでは、まだ終わらなく、次に松下氏を待っていたのは不況の波でした。ドッジ・ライン不況によって窮地に立たされた松下氏は、そこでも根性を見せます。人員を大量に整理したり、賃金を抑制することで、何とか危機を乗り越えますが、この経営方法が「物品税の滞納王」とマスコミに揶揄されてしまいます。

 社長業を退き会長職になりましたが、ヒット商品があまり出なかったことが岩戸景気後の不況と重なって、会社が赤字に転落してしまいます。それに加えて「熱海会談」によるつるし上げをうけて、松下氏は再び前線に復帰することになります。

 その後も順調ではなく、公正取引委員会の立ち入り検査や、排除勧告を受けましたが、これを拒否したため、世評で厳しい立場に立たされます。
しかしその後、日本万国博覧会で出展した「タイムカプセル」が大ヒット。松下氏は正式に現役を退くことになります。御年80歳、長かった前線から降りて、享年94歳でこの世を去りました。

 実業家でもあり、発明家でもあり、技術者でもあった松下氏。その一代で築き上げた「松下電器」は今もパナソニックとして生き続けています。「経営の神様」とまでいわれた松下氏のその生涯は、決して順風満帆なものではありませんでした。逆境に立たされながらも負けずに進み続けた松下氏。晩年は政治家の育成にもはげみました。そんな松下氏の名言を最後に2つ挙げます。ときに厳しく、しかし会社を大事に思っていた松下氏には、学べるところが多いですね。

「失敗の多くは成功するまでにあきらめてしまうことに、原因があるように思われる。最後の最後まであきらめてはいけないのである。」

「悪い時が過ぎればよい時は必ず来る。おしなべて、事をなす人は必ず時の来るのを待つ。あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。」