藤子・F・不二雄「漫画の王様」と呼ばれる所以 名作「ドラえもん」のヒットの裏とは?

 「ドラえもん」、「パーマン」、「キテレツ大百科」、「エスパー魔美」などの大ヒットで知られる漫画家、「藤子・F・不二雄」さん。本名は藤本 弘さんといいます。相方である「藤子不二雄Ⓐ」さんと組んで、「藤子不二雄」として漫画家デビューしたことは周知のことです。しかしその爆発的ヒットも、簡単にいったものではありませんでした。今回は、そんな藤子・F・不二雄さんに迫っていきます。

漫画家として


 ファンの皆さんから、「漫画の王様」とも称される藤子氏。しかしそこまで行くのには、並々ならぬものがありました。

 藤子不二雄として相方である藤子不二雄Ⓐ氏とデビューを果たしたのが17歳の時でした。当時製菓会社に就職した藤子氏でしたが、作業中に事故にあって漫画がかけなくなることを恐れて、3日で退職したのは有名な話です。そこまで漫画は彼を惹きつけて止まないものでした。その後藤子不二雄Ⓐ氏を無理やり誘って上京し、漫画家として本格的にスタートすると、数々のヒット作を生み出しました。しかしその後、1988年にコンビ解消してからは、お互いに漫画家としてリスタートをきりました。

ドラえもんのヒットの裏側


 今や国民的名作として名高い「ドラえもん」ですが、そのヒットの裏には、藤子氏の苦悩がありました。

 1964年の「オバケのQ太郎」や、1966年の「パーマン」などが大ヒットした藤子氏ですが、実はその後、長いスランプに見舞われました。そのスランプのすごさは、当時藤子氏が、自分から「週刊少年サンデー」の連載陣から外してほしいと頼むほどでした、漫画が大好きだった藤子氏としては、苦渋の日々でした。その後、青年誌で短編「ミノタウロスの皿」を書き上げ、スランプは脱したと思われましたが、そうではありませんでした。
続く1969年、学年誌で「ドラえもん」を書き始めますが、最初から人々に受け入れられたわけではありません。人気はいまひとつ出ずに、1974年にアニメ化されるもすぐに放映終了となってしまいます。ここでも、藤子氏は壁にぶつかってしまいました。「ドラえもん」の漫画連載も終了か、と皆がおもっていましたが、ここで契機が訪れます。それが「ドラえもん」の単行本の発売でした。単行本がまさかの1500万部の売り上げを記録し、ここから世界中に配信されることで、その世界的人気を確立させました。

 実は「ドラえもん」は、藤子氏の子供時代が反映されている、と本人も言っています。藤子氏は身体が弱く、壮絶ないじめにあったそうです。そこからのび太とドラえもん、ジャイアンが生まれたとされています。過去のどんなことが、その後の契機となるかわかりませんね。


漫画への貢献


 1996年、机に向かったまま意識不明で発見された藤子氏は、よほど漫画に思い入れがあったのでしょう。死後、アニメーション神戸96読売賞も受賞しました。この賞は、藤子氏のアニメーションの文化とその産業振興への寄付がたたえられたものです。本当に漫画を愛していた藤子氏でした。

 漫画家という特殊な職業の中でも、その地位を確立させた藤子氏。しかしそこまで行くには、並々ならぬ苦渋の日々もありました。最後は、死後も漫画家として表彰されるという、漫画界のリーダー的存在でもあった藤子氏の作品はいつまでも輝き続けることでしょう。最後に藤子氏の名言を2つご紹介します。漫画の中に限らず、すべての方に通じる言葉だと思います。ぜひ最後まで見てみてください。

 「まんがに限らず何かを捜索する人というのは、自分の中に何かを表現したい、自分以外の人に向かって訴えたいものを自分の中に持っているかどうかが一番大切なことだと思うんです。」

 「物を作るというのは、その人の個性を100パーセント発揮させないとうまくいかないんです。いろんな意見を出し合って、足して2で割る。3で割るというようなやり方ではだめなんですよね。」