本田宗一郎 もっとも愛し親しまれたカリスマ経営者。その哲学とは?

 本田宗一郎はいわずと知れた本田技研工業(現在のHONDA)の創業者であり、日本を代表する実業家です。彼のそのカリスマリーダー性は、今でも愛され続けています。技術者としての本田氏と、経営者としての本田氏、それらはどちらも切り離せないものでした。今回は、そんな本田氏の生涯に迫ります。

1代で築き上げた栄光



 16歳で丁稚奉公として自動車修理工場である「アート商会」に出された本田氏は、その後唯一のれん分けを許され、浜松市に支店を設立し独立します。社長業の傍ら、金属工学を学ぶため、浜松高等工業学校の聴講生になり、献身的に学びました。
そんな彼が、まず目を付けたのはオートバイでした。妻であるさちさんが終戦後の買い物に行くのに、自電車にエンジンを付けたら楽になるのではないか、と思いつきます。そうして出来上がったのが、「本田技術研究所」でした。始まりは資本金100万円、従業員20人と、決して大きな会社ではありませんでした。その中で、本田氏は二輪車の研究を始めます。1949年には、のちに副社長になる藤沢武夫氏に出会い、ホンダを世界的な大企業に育てあげていくことになります。

技術者としての本田宗一郎


 ホンダが大企業として発展していく一方で、本田氏は技術者としては衝突を繰り返します。後年は理工学的に無理を突き通そうとしたため、最終的には本田氏の引退にまでつながってしまいました。エンジンに固執するあまり、若手の技術者は反発し、出社を拒否するものまで出てきました。一時はそのエンジンのコストの高さと生産性の低さで、ホンダは倒産の危機まで迎えてしまいます。そこで引退を迫られ、本田氏は技術者としての引退を決意しました。本田氏は決して、なんでもできるスーパーマンというわけではなかったのです。のちに「人間としては尊敬できるが技術者としては尊敬できない」とまで言われています。

経営者として


 一方、経営者として本田氏はカリスマ的でした。代表されるのが、「ご苦労さん会」です。これは全国のホンダの販売会社の社主をねぎらうものです。ここでは、参加者の一人一人に「ありがとう」と連呼する本田氏の姿が見られたそうです。参加者は、本田氏の「ありがとう」に深く感銘を受けたそうです。現役引退後も、本田氏は世界中の関連会社や工場を巡り、「ありがとう」を伝える旅に出ました。こういうところが、人を惹きつけて止まない本田氏のリーダーシップの根源だったのです。

本田宗一郎の哲学



 本田氏を語るうちで欠かせない言葉があります。


「成功は99パーセントの失敗に支えられた1パーセントだ。」

 冒険心を忘れて、無難な道ばかり行っている我われ日本人に向けた一言のように思われます。もっと失敗を恐れずに精力的に行くように、と本田氏は言っています。開拓精神を大事にした本田氏らしい一言です。

 技術者としては引退せざるを得なかった本田氏は、しかし経営者としてはカリスマ的存在になりました。このことは人間の得手不得手というものを、如実に示していると思います。本田氏が1代で築き上げた「ホンダ」という城は、今も人々に支えられ続けています。この形こそが、本田氏の目指した「会社」というものだったと思います。


最後に本田宗一郎の名言をご紹介します。深く心にしみわたる言葉です。ぜひ心のうちに秘めておいてください。

「失敗もせず問題を解決した人と、
十回失敗した人の時間が同じなら、 
十回失敗した人をとる。
同じ時間なら、失敗したほうが苦しんでいる。
それが知らずして根性になり、 
     人間の飛躍の土台になる。」


「成功者は、たとえ不運な事態に見舞われても、
この試練を乗り越えたら、
必ず成功すると考えている。 
そして、最後まで諦めなかった人間が、
成功しているのである。」

本田宗一郎より