橘諒
囲碁で学ぶタイムマネジメントセミナー
世界的文筆家兼哲学エッセイスト。ギフテッド。25歳。幼少期に祖母の読み聞かせで読書を始め、思春期には囲碁を習い思索を覚える。小六で始めた囲碁は一年後にアマ5段まで上達、中一の冬に日本棋院院生に合格。そこまではよかったが、当時院生上位に君臨していた碁の化身たちを見てプロを断念。「上には上がいる」ことを囲碁を通じて叩き込まれた。
囲碁の上達に比例して学業放棄を進めた結果見事に落ちこぼれ、すべての時間を"これ幸い"と囲碁と読書に投入。高三次に全国四位に入賞したのを機に囲碁は離れる。都内の私立文系大学に進学後、憑かれたように読書に没頭し、四年間でおよそ千冊を読了。その後一年の空白と一年の海外生活を経て文筆活動を開始。
2014年9月には囲碁ビジネスチーム「StartupIGO!!」の最高着想責任者(Chied Idea Officer)に着任し、チーム全体を引っ張る存在になる。
【幼少期】
祖母の読み聞かせで読書を始める。毎晩寝る前に三冊の絵本を読んでもらい、文字を覚えてからは当時家にあった百冊ほどの絵本を繰り返し読んでいた。いわゆる"本の虫"。
【小学校】
学童クラブで数字パズルと読書に没頭。漢字に適性があり、小六までの漢字ドリルを小二で解き終えていた。両親が自営業かつ共働きで家に人が居なかったため、サッカー・野球・バスケ・水泳・英会話・公文式・習字など数々の習い事に駆り出される。小五からは中学受験のため塾にも通った。志望は中高一貫校、理由は"高校受験回避と"家徒歩五分"。無事合格後、「ヒカルの碁」の影響で興味を持っていた囲碁に取り組むべく、地元の碁会所に片足を踏み入れた。その一歩が、その後の人生を大きく変える。
【中学校】
徒歩五分なのに自転車で通学。授業は悉くつまらなかった。結局この中高一貫校でまともに勉強したのは中一前期の半年のみ。後に高二で転校するまで、成績は常に1と2をキープしていた。進級できた理由は「追試で100点を取っていたから」。定期試験は最初から放棄し0点、問題と解答法が相似する追試で本気を出して100点。そうすると"最初の定期試験で30点"と同じ扱いになるので、赤点(30点未満)を免れ進級ができる。「最初から勉強しろよ」という級友の視線は、囲碁の本片手に黙殺。
中一の夏休み、学業よりも囲碁が遙かに面白くなる。その時点での棋力はアマ2級ほどだったが、その後の半年で5段まで上達。囲碁を始めてちょうど一年目の月に日本棋院院生(将棋でいう奨励会)に合格。地元では神童扱いされたが、院生にはそれを上回る化け物がうじゃうじゃ居た。そのあたりの事情は院生時代の思い出話に書いた。結局、院生は一年半ほどで辞めた。元院生全員に課される一年間のアマ大会出場禁止期間を経て、高校囲碁界に殴り込みをかける。
【高校】
地元茨城県の大会は一通り優勝。高二の全国大会団体戦部門に茨城県代表(副将)として出場し6戦6勝。次の年には大将として出場し再び6戦6勝、チームも5勝1敗で4位に入賞した。1敗は優勝チームから喫したものだったが、得失点差の関係でメダルを逃した。
学業は激動する。先述の一貫校において、高二次の遅刻数が年間108回(学校新記録)を樹立。さらに成績不振(それは常態だけど)も相俟って学校側から退学勧告を受けた。当時囲碁でお世話になっていた定時制高校の先生が編入を打診して下さったので喜んで受諾、徒歩五分が電車一時間になったものの、定時校の水は本当に自分に合っていた。進学校との落差を謳歌しながら囲碁の成績は前述の通り。さらに昔取った杵柄で軟式野球部に所属、学校初の全国大会出場を果たした。2番センターとして明治神宮球場の土を踏むも一回戦で敗退。
【大学】
国語と英語の二科目受験で偏差値40台の大学に合格。進学理由は"モラトリアム"。先述の12戦12勝に満足していたことに加え、もう一度真面目に運動に取り組みたいとの思いがあったため、囲碁を遮断してバスケ部とバスケサークルに所属。二足の草鞋を三年後まで履き通した。
ただし、草鞋数は大学三年次から急増。当時バスケ部で副部長、バスケサークルで部長になっていたのに加え、就活ゼミ副長・ディベートゼミ創立長・SPI勉強会主宰・学部ゼミ副長・小学校ボランティア、さらにアルバイトをかけもちしながら、一日一冊の読書を自分に課していた。理由は"就職活動の準備"。それだけの数の草鞋を履いた理由は、どこかへ行きたかったからではなく、どこにも行きたくなかったから。どこへ行けばいいのかわからなかったから。
それらの準備に加え、SPI模試の成績は校内1位、全国でも上位1%に入っていた。しかし就活自体は、一次面接を二回受けたところで辞めた。事情は学業を放棄したときと同じ。要するに、どちらも全く面白くなかった。
【一年の空白】
新卒カードを捨ててフリーター生活に突入。色々なところに首を突っ込んだが、身の振り方は一つも見当たらなかった。そうこうするうち、自分が社会不適合なのか社会が自分不適合なのかわからなくなり、アルバイトもすべて辞めてニートに転身。あのころの自分に言ってあげたい「社会が自分不適合だから心配するな」。結局この一年の精神的過重が圧力となって、自分の密度を最大まで高めてくれた。"人間万事塞翁が馬"は真実。
【海外生活】
ニートとしてへたばっていた自分に、ある方がオーストラリア留学の誘いを下さった。とにかく日本を脱出したかったので喜んで受諾。一年間のワーキングホリデーのうち、語学学校四ヶ月→キッチンハンドとデリバリーのかけもち六ヶ月→休暇と観光二ヶ月を経て帰国。日本での反省を活かし、海外生活中はあえて本を読まないことにしていた。しかし帰国二ヶ月前のある日、小さな古本屋にふと立ち寄ることになる。そこで買った僅か1ドルの本が、それまでに読んできた千冊以上の本すべての内容を繋げてくれた。「ああ、この本に出会うためにオーストラリアに来たのか」と思った。繋がった内容をノートに綴り始めた。文筆家としての第一歩を踏み出した。
【帰国後】
2014年5月11日にブログ栴檀の板の運営を開始。
2014年7月11日にコミュニティ栴檀の香を設立。
2014年9月11日に雑記が本気モードに突入。
2014年9月27日にStartupIGO!!の最高着想責任者に就任。
2014年10月8日に個人サイト「ryo-tachibana.com」を開設。
2014年11月15日に電子書籍「キャッチ碁ピー本。壱」を出版。
2014年11月18日に肩書きを「世界的文筆家」に変更。
2014年12月5日に「哲学エッセイスト」の肩書きを併記。
現在に至る。
【おまけ】
人生で一番大切にしているものは"諦念"。
好きな言葉は"夜明け前が一番暗い"。
文筆活動の目的は"価値総量の増加"、
価値の定義は"普遍妥当性をもった理想的・絶対的価値の獲得に役立つ性質"。
以上を踏まえて、座右の銘は"時間は一生でも足りない"。