安藤 憲夫

東京ビジネス倶楽部 顧問

※下記は講師プロフィールの一部抜粋です

2001年6月~2005年、ソニー生命在職中より、SONYの「FeliCa」普及に貢献。民間経済団体の責任者として会員企業をフル動員し、ジョイントベンチャーを組織し、発足当時に150人もの日本を代表する企業の代表者や責任者が集まり、毎月集まる会議場が用意できなくなり、業種ごとの分科会で開発と「FeliCa」システムの自社採用が進み、「nanaco」「WAON」「Edy」「Suica」「pasmo」普及の足掛かりを創った。独立起業後の最大の成果です。
ソニーで修得し、盛田昭夫ファウンダーから学んだノウハウと封印されていた「My Sony」のブランドに込められた『情熱』が日本から全世界に広がっています。

2001年秋より顧問先金融機関のエージェントとして、上場前のインボイス社の支援に参画し、参入を希望していたベンチャーキャピタルや金融機関と株主の連携を推進しました。

2002年、キャノンラグビー部の選手向けに、グループ会社取締役で現GMの佐藤氏の要望で独自共済を海外再保険制度活用し馴染みのない共済契約を締結し、怪我が絶えない選手達を支援いたしました。 インボイスとの業務提携の橋渡しもこの時期からスタートいたしました。

2003年、共済組合の理事当時、ライフカード社の要請でデビットカード日本導入のアドバイザリーを行う。 その後三菱商事が大株主のクレジットカード決済会社の顧問に就任。

2002~2004年、ジャパンメディアネットワーク社の関係者の推薦でコンサルタントから顧問に就任し、コンビニ各社、通信会社、商社、JA全農、経済連、商工会議所の販路開拓も行いながら、一部代理店のサポートを請け負う。携帯電話定額話し放題のプランに話題が集まり株主の東証二部上場の大盛工業の株価は跳ね上がり、1年以上に渡り最も売買された銘柄となる。

2003年秋、マスコミや市場で話題を集める中、サービス開始の翌年1月に同社が破産。債権者・代理店・クライアント対応に追われ、2年以上に渡る投資が回収できないまま人生最大の危機を過ごす。(安藤総合研究所・譲渡、千代田経営コンサルタントに移籍)

2004年秋、日本橋三越本店100周年記念、新・新館完成に合わせて、オリジナルプリペイドカードの制作を受注し、運営管理システムを日本橋東短室町ビルにある本社と韓国ソウルのKDDI子会社に設置したサーバーを連動させて運用しました。今では考えられない大がかりなシステム構築です。また当時入居していた東短室町ビルは、東京短資関連の会社しか入居できない与信の厳しいビルで裏を返すと会社の知名度が低くても日本の金融中心街の日本橋では一目置かれてしまう絶大な影響力があるビルです。(千代田経営コンサルタント取締役当時、顧問先通信会社の取締役として全般を指揮)

2004年10月より、環境学博士の木原卓也氏に師事し、東洋工業(現・マツダ)副社長、住友銀行副頭取、アサヒビール社長、JR西日本初代会長、関西経済同友会代表幹事を歴任された故・村井勉氏を発起人代表に迎え経済界、文化会から支援を得て、インターネット上に様々な才能の持ち主を登録する人材『銀行』を設置し、幅広い分野から登録を受け付け、同時に弁護士や公認会計士、学術経験者から作る評価機関を設けて、登録された才能や企画を評価する。高い評価を受けた人材については、才能や企画が生み出す収益を受け取る権利を小口分散化する証券化の手法を用いて資金支援する。資金の出し手を確保するために、投資家倶楽部も組織。事業化のノウハウも提供し「創知資産研究所」を設立して証券化、事業化を後押しする。木原博士は、2006年6月3日(土)午前2時30分逝去されました、享年57歳でした。木原博士が残された『人材バンク』構想のマスターデザイン(詳細な計画書)を安藤が継承しております。もともと発足は大阪の経済界中心で東京では木原博士と安藤で立ち上げる準備段階だったためです。

ナポレオン・ヒル財団日本ディヴィジョン創業期の代理店オーナーたち 第1回コンヴェンションで個人部門第1位、田中孝顕理事長と 表彰時のスピーチ ナイチンゲール・コナント社ビック・コナント社長とシカゴ・ナポレオン・ヒルコンベンションにて
2006~2007年、ナポレオン・ヒル「成功哲学」特別無料講演会in六本木ヒルズ森タワーに参加者から会費を取らないこと、教材の売り込みをしないことを条件に協賛し、顧問先企業のホールを会場として提供をいたしました。(安藤はナポレオン・ヒル財団日本ディヴィジョン創業時の最年少代理店オーナーでした写真は22~23歳当時)
2006~2007年、独立起業の支援、学生団体の支援、ジョイントベンチャー、ビジネスマッチングをアンリミテットサクセスクラブ(無制限成功倶楽部)として六本木ヒルズ森タワーの39Fと17Fにて事務局を運営いたしました。 スポンサー企業の撤退までの間、インターネット放送局、講演会、ビジネストレーニング、就活セミナー、交流会、パーティーなど短期間に8000人近くの方を六本木ヒルズにご招待できました。インターネット業界で今では有名になったコンサルタントやコーチングのスペシャリストもよく来て頂きました。ブランドオーナーやカリスマ経営者と呼ばれる方々も六本木ヒルズが引き寄せてくれました。


2008年3月より、船井総合研究所にて資産除去債務・環境債務に関する講演・支援企業の斡旋(ビジネスマッチング)をスタートさせ、日本中から500社を超える引き合いを頂き、講演、業務提携、経営支援など多忙な業務をこなしました。

2008年、洞爺湖サミット開催に際して、北海道と洞爺湖町役場に廃屋ホテルのアスベスト対策のアドバイザリー支援を行う。

2008年、JR東日本様に顧問先支援企業のアスベスト対策技術が採用されました。

2004年より、JR東日本様、JR東日本ビルテック様には別途、顧問先の建築施工技術を採用頂き、駅・建物・橋脚・トンネルの改修・補強、防水工事に於いて多数の実績がございます。

2008年、都営地下鉄に顧問先支援企業のアスベスト対策技術が採用されました。

楽天EXPO2009にスポンサーとして協賛いたしました スポンサーとして至る所にロゴや会社名を掲載いただいました 応援に来て頂いたグラウンディングラボの都丸副社長とボランティアの女子大生たち 三木谷社長の講演が終わりスポンサーエリアに人が流れ出しました
2009年、楽天EXPO2009にスポンサーとして協賛いたしました。顧問先支援企業もブースを出展し、パンデミック対策で注目を集め成功を収める。

危機管理産業展2009 会場内で最も集客をしたダイドードリンコ社のブース 自民党高市議員をエスコートするダイドードリンコ幹部 パンデミック対策で採用された顧問先の機器
2009年秋、危機管理産業展において、ダイドードリンコ様の展示ブースで顧問先支援企業のパンデミック対策の除菌システムがコンペに参加したダイキン・シャープ・サンヨー・パナソニックを抑えて採用され大ヒット。全日空の管理施設導入を皮切りに、放送局、ホテル・空港・病院・介護施設・鉄道・幼稚園・小/中/高校・大学・公共施設・ショッピングモール・コンビニ・タクシー・バス・予備校・進学塾などに採用される。

2009~2010年3月、第24回日本助産学会学術集会の運営に協力する。
参加される先生方の宿泊支援で、会場に隣接するホテルオークラ様にも協力も頂きました。
経営者倶楽部の協賛で展示ブースにも出展、会員企業様の広報活動にも貢献いたしました。
その後、教育関係者とも情報交換を行い、新規事業創出に役立てました。
同時期、顧問先支援企業が文部科学省、対がん協会、自治体の協賛で子宮頚がんの啓蒙活動を精力的に取り組み、女子大生独自の活動としてメディアの注目を集め、絶大な成果を上げました。

2010年7月、みんなの党・比例全国区から立候補されました、前PHP総合研究所社長の江口氏を応援させて頂きました。松下幸之助哲学の継承者として知られる江口克彦氏に直接ご指導頂ける機会と場を作りたくて、学生や若手経営者と共に、「江口政経塾」を創設したかったのですが力及ばず断念いたしました。会えば手を取り合う仲の経済人、財界人達ですが調整は難しく、考え方と利害の壁は簡単には超えられませんでした。

2009~2010年、東京・千葉・神奈川の主要ホテル運営企業担当者様、鉄道施設管理会社様に、資産除去債務の対策に関する講演をさせて頂きました。
2010年、船井総合研究所・スリーライト社共同発行、エコビジネス情報誌『Eco-Biz Front Edge』の監修に協力。
2010年、東京ビックサイトの省エネ対策としてガラス遮熱コーティングに顧問先支援企業の技術が採用されました。
2011年夏、メガバンク系列コンサル会社、監査法人、資産除去債務対策支援団体、国内最大手農業団体、鉄鋼大手、対応会社のジョイントベンチャーを発足
2011年11月、日本テクノ経営者倶楽部発足