福一不動産・古川隆社長

日本一の地域密着成功事例

古川 隆(ふるかわ・たかし)
株式会社福一不動産 代表取締役
1962年9月、宮崎県延岡市生まれ。
1985年、大分工業大学建築科を卒業。
大手マンションデベロッパーに勤めるが、バブル崩壊でリストラにあう。
1995年、株式会社福一不動産に入社。1997年9月、社長就任。
福岡市博多区祇園町、冷泉町、店屋町、上川端町、中洲2~5丁目に特化した展開で業界の注目を集める。
店舗を紹介するインターネットサイト『e中洲ドットコム』や経営支援サービス「ユアーズ」を提供。
また、全国各地で経営者を対象にした講演・セミナーを行う一方で、中洲のママさんを対象に講演会・勉強会も定期的に開催している。
著書は『崖っぷち社長の逆転戦略』(花乱社)、「売りたかったら売り込むな!」(あさ出版)

■福一不動産・古川隆の起業物語

~天国と地獄(バブル全盛時代とリストラ宣告)~

私、古川隆(ふるかわ・たかし)は、 宮崎県延岡市出身になります。1985年大学を卒業後、大阪の大手マンション販売会社に入社しました。バブル全盛時代には、毎年の慰安旅行はハワイ旅行でした。

また、ある時は遊園地を借り切って全社員2000人以上参加しての大パーティを開催したり、夜は高級クラブの接待、休みはゴルフ三昧。まさに天国のような生活が続いた時期でした。

ところが、ご存知の通りバブルが崩壊し、状況はガラっと一変。いきなり売上げが前年から激減。さらに会社の不祥事が続発し、業績は留まることなく、下降一途をたどっていくことになります。

そして、今でも忘れもしません、1995年11月。ついに会社より、上司より私に「肩たき」つまりリストラ宣告を突きつけられました。

業績が悪くなる中で、昨日2200万円のマンションを、今日は1400万円で売らざるをえない。そういった会社の指示は、お客様に対する裏切りに近い商売だと、疑問が拭えませんでした。雇われたサラリーマンでは、同じようなことになってもどうしようもない。お客様との信頼関係を大切にした商売をするには、これはもう自分でやるしかない!と、独立を決意しました。

退社後、知人がオーナーの休眠状態にあった不動産会社「福一不動産」に社員として入社したのが1995年12月。事務所は小さなワンルーム・マンション。コピーやFAXは知人から譲リ受け、事務机や電話などを含めても開業資金は一人暮らしの引越し並に押えることができました。

1997年に営業権を買取り、私自身が代表取締役となりました。まったく経営ド素人の私の奮闘はここから始まります!

~お客様は事務所の半径500mにいた~

自分で始めた2年間は、前の会社時代と同様のやり方をやっていました。他社のマンション販売代理店になり、仕事があれば距離や地域を問わず営業活動を展開していました。

しかし多数のエリアで取引をしたところで、次への継続性はほとんどありません。また福一不動産への馴染みや信用が生まれにくいと感じていました。

そういった効率の悪さを実感していた時、1997年10月にランチェスター経営の竹田陽一氏が開催している経営勉強会に参加しました。そこで、地域戦略の重要性を知り、地域密着型の営業に取組むことを始めました。正直言って、営業活動範囲を事務所から半径500mの地域に限定するのに不安は隠し切れません。

しかし、この地域内の物件を見回ってみて、ビル名、所有者、部屋数、空き部屋情報などを徹底して独自に集めてまわり、さらに競合他社の割合を分析してみると市場規模は12億円以上もあり、しかも競合する他社がほとんどいません。競合する他社がいなかった理由というのは、エリアに西日本一の歓楽街「中洲」が含まれているからです。

移転率の高さや夜の商売特有のトラブルが多く、商売にならないと考えていたからでしょう。

このエリアで徹底して掘り起こせば、この地域でナンバーワンになれると考えました。

この後は会場で